知久寿暁という人
「たま」というバンドは知っていた。ランニングシャツを着たドラムがいて、「さよなら人類」が流行っていて、それくらいの認識として知っていた。特に関心はなかったし、その1曲で消えていった人たちだと思っていた。
あらためて「たま」と出会ったのは、それから30年くらい経ってからのことだった。最初に見たのは「らんちう」で、こんなに暗くて、死んでいく子どもに託された寂しさを歌うバンドだったのかと思った。「さよなら人類」は柳原幼一郎で、「らんちう」は知久寿暁で、他の2人もリードボーカルを取るバンドだったのだと知った。驚異的に演奏がうまく、独創的で、豊かな音だった。
しばらくずっと知久寿暁の歌が頭から離れなかった。それが数ヶ月続いている。どうしてあの頃にこうした曲に出会わなかったのだろうと後悔した。そんなふうな後悔をすることは少ないのだけど、音楽を自分のものにしたいと思っていたあの頃にこうした音楽に出会っていたら、きっと僕の音楽はずっと違うものを目指しただろうと思った。でも、あの頃の自分には真似ができなくて、歌うことはできても曲として理解することはできなかったかもしれない。歌うこともできなかったかもしれない。
ギターを続けてれば良かったなと思う。今でも手元にあるし、弾こうと思えば弾けるけど、それでも自分の音楽として弾けるほどのものではない。多分それを取り戻すには長い時間がかかる。それを思うともっと弾いておけば良かったと思う。
今の知久寿暁という人を見ると、高田渡を思い起こす。時代が違うし、為人も違うから、高田渡ほどに身を持ち崩した人という佇まいはないけれども、誰かに気兼ねをして生きることを放棄して、その代わりにあえてみすぼらしさをまとうようなその姿に、吹きだまりに流されていく人という印象を抱かせる。それが羨ましくも思うし、羨ましくもなく思う。
こんな音楽を作って、こんなふうに歌っていけたらなということは羨ましく思う。
ただそれだけの記録。